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2013年10月2日水曜日

帝銀事件の平沢貞通元死刑囚の養子(54歳)が東京の自宅で急死

☆帝銀事件・平沢元死刑囚の養子?死亡 東京の自宅で
(朝日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131002-00000002-asahi-soci

http://www.peeep.us/c0bf95fb

1948年の帝銀事件で死刑判決を受け、獄中死した平沢貞通元死刑囚の養子の平沢武彦さん(54)とみられる男性が1日夜、東京都杉並区の住宅で死亡しているのが見つかった。警視庁によると、事件性はないという。

(略)

武彦さんは1989年、帝銀事件の第19次再審請求をしていた。


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《平沢武彦さんが生前に書いた文》

http://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm


小樽で平沢貞通氏の春画発見!

  小樽で平沢が描いたと思われる春画の巻物が発見。それは12ヶ月の浮世絵の模写、一枚目の正月の絵は、梅と日の出が描かれたものだが、私はその絵に注目、画風から平沢の絵に酷似していた。

  裁判で、平沢に疑惑が向けられたのは事件後に10万円の出所不明の金を所持していたことだった。裁判官、検事は「春画を描いたことはないか?」と平沢に尋問したが、かたくなに否定。だが、死刑確定から約8年後「実は秘画12ヶ月を描いた金です」と私の父(※1)に告白している。

  小樽の親族は、終戦後に平沢がよく春画を描いていた事実を認めている。また、横浜でも平沢の春画4枚が見つかっている(※2)。

  今後、美術研究家に鑑定を依頼。平沢の春画であることが判明した場合、判決認定の「生活に困窮し大量強盗殺人を起こした」という犯行動機が崩れ、出所不明の金の問題にも波及。

  長い歳月、謎とされていた平沢の春画に、今、光が当てられようとしている。それは21世紀に判断がなされる死後再審に多大な影響を与えることになるだろう。


※1  平沢武彦氏の実の父、初代「平沢貞通氏を救う会」事務局長、作家・森川哲郎氏

※2  東京新聞2000年5月24日(水)朝刊、「こちら特報部」で報道



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☆帝銀事件

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%8A%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

当時、読売新聞の記者が、陸軍9研(登戸研究所)でアセトシアノヒドリン(青酸ニトリル)という薬を開発していた事実を突き止める。即座に威力を発揮する即効性の青酸カリに対して、アセトシアノヒドリンは飲んで1分から2分ほどで効果が現れる遅効性であり、遺体解剖しても青酸化合物までしか分析できないことが判明したが、突如、警察の捜査が731部隊から大きく離れた時点で、報道も取材の方向転換せざるをえない状況になり、731部隊に関する取材を停止した。

後年、GHQの機密文書が公開され、1985年(昭和60年)、読売新聞で以下の事実が報道された。

犯人の手口が軍秘密科学研究所が作成した毒薬の扱いに関する指導書に一致

犯行時に使用した器具が同研究所で使用されていたものと一致

1948年(昭和23年)3月、GHQが731部隊捜査報道を差し止めた。

ただし、アセトシアノヒドリンであっても事件の経緯からすると謎が残る(少なくとも5分は経過していると思われる)。

次にあがったのが、安定した(人間に毒性を持たない)シアン化物(シアン配糖体)と、その成分を毒性化する酵素の2薬を使用した、バイナリー方式と言うもので、ジャーナリストの吉永春子が自著の中で言及した。シアン配糖体は身近な食用植物に含まれている。また、これにより発生するのはシアン化水素で、体内の水分と結びつくことでシアン化水素水溶液となる。このシアン化水素は一般に入手可能なシアン化化合物より遥かに毒性が強い。

この吉永の説は、従来の731部隊犯説を大きく覆すもので、一定の説得力があった。犯人が第1薬を平然と飲んだこと、他に失敗した例があること、後に米軍がこれを研究し実用化の段階まで進めていること、などである。

吉永の主張は、731部隊とは直接関係がない米軍による人体実験である、というものだった。実際、日本ではこの分野の化学兵器の研究は行われておらず、酵素の研究が進んだのは戦後のことである。

ただし、この説でも、この時点では酵素の研究がそこまで進んでいたのか、人体内での反応が安定して起きるのか、また、容器に使われた茶碗からは青酸化合物が検出されていない理由はどうなるのか、という疑問が残る。



平沢の獄死直後の5月25日、捜査本部の刑事に協力した伴繁雄がテレビ出演して、真犯人は平沢でなく、元陸軍関係者と強調していた。

捜査に携わっていた成智英雄は後の手記で「帝銀事件は平沢のように毒物に関する知識が何も持たない人物には不可能で、真犯人は元秘密部隊にいた人物」とし、さらに「731部隊の内50数人を調べた結果、経歴・アリバイ・人相が合致するのはS中佐(事件時51歳、事件翌年に病死)しかいない」と書いている。しかし、731部隊に所属していた人物によると、S中佐と同姓同名の人物は確認できず、S中佐と同じ苗字で名前は似ているが異なる人物が二人いるとして、成智英雄は二人以上の人物を混同している可能性がある。さらに付け加えるなら陸軍軍医名簿の中にSという人物はこの2人しかいなかった。

事件から6年後の1954年(昭和29年)、茨城県内で青酸を使用した大量殺人事件が発生した。この手口が保健所を名乗り毒物を飲ませるという帝銀事件と酷似したものだったことから弁護人が調査の為に現地入りしたが、逮捕された容疑者が服毒自殺してしまったため調査も進展しなかった。



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《帝銀事件の真犯人は「731部隊」生き残りの人物であるとの説》

http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/teigin.htm

警視庁捜査2課で捜査主任をしていた成智(なるち)英雄警視は、極秘裡に捜査を進めており、死の直前に『別冊 新評』(1972年10月)に掲載された手記には、「アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局、731部隊に所属していた医学博士の諏訪(三郎)軍医中佐(当時51歳)ただ一人となった。・・・体格・人相・風体は、帝銀、安田銀、三菱銀の生き残り証人の供述による犯人のそれとピッタリと一致している。」と書いている。当時、この証言を元にモンタージュ写真が作成されたが、成智が事件当時の諏訪中佐の動静を遺族や近所の住人に当ったり、写真を入手して検討した形跡がなく、また日本陸軍軍医将校名簿には諏訪三郎という軍医は存在しないということであった。該当する人物は諏訪敬三郎軍医大佐と諏訪敬明(のりあき)軍医中佐であった。

(略)

その頃、読売新聞の大木社会部次長は、731部隊の隊員を必死になって追跡していたが、警視庁から呼び出され、圧力をかけられた事実があった。大木が警視庁に行くと、藤田捜査本部長とGHQのイートン中佐と2世の服部中尉の3人が立っていた。大木はそこで次のように言われた。

「石井部隊(731部隊)は、対ソ戦に備えて保護し温存中である。これを暴かれては米軍は非常に困る。この調査から手を引いてくれ」

このことが明るみになったのは、のちに逮捕されることになる平沢貞通が最高裁で上告棄却によって死刑が確定したあとであった。

また、同じく読売新聞の遠藤社会部記者も、藤田捜査本部長から圧力をかけられた。藤田は遠藤に電話をかけて次のように言った。

「今、君のやろうとしている事件から手を引いてくれないか。権威筋からの命令でね」権威筋とはアメリカ当局のことである。「いろいろ関係があって、石井部隊を君一流のスッパ抜きでやられては困るので、とにかくやめてくれ。この埋合わせは他でするよ」

(略)

1967年(昭和42年)、甲斐文助警部の捜査記録が公表された。事件直後に顧問として招かれた石井四郎731部隊長が「犯人は軍関係者に違いない」と語っていたこと、731部隊が中国などで繰り返していた青酸毒物実験の手口が事件と同じだったことが暴露された。

(略)

松本は、平沢が事件直後に所持していた13万4000円の金の出所について、生活費を稼ぐため、春画を描いて売った金だから日本画の大家としてのプライドから白状できなかったと推論した。

小樽の親族によると、戦後に平沢は春画を描いていたという。また、横浜でも、平沢が描いたとされる春画が3枚見つかっているが、はっきりしていない。

(略)

GHQは731部隊に対し、極東国際軍事裁判で戦犯免責にするという条件と引き換えに、731部隊が持っていた細菌戦や生体実験データを入手していた。だが、この帝銀事件が起こったことにより、GNQはデータを入手したという事実が発覚することをおそれて、日本警察に対し圧力をかけたという疑いがある。

毒薬兵器の使用は、「陸戦の法規慣例に関する条約」(1907年のハーグ条約)で厳禁されており、細菌等の化学兵器の使用は、「窒息性、毒性またはその他のガス及び細菌学的戦争方法を戦争に使用することを禁止する議定書」(1925年のジュネーブ議定書)で厳禁されている。だから、GHQはデータを入手したという事実が発覚することをおそれていたのである。

だが、731部隊員は、特に青酸などの毒物の扱いに慣れていたわけではなかった。そうしたものの扱いに慣れていたのは別の部署だった。

東京の第6陸軍技術研究所、陸軍習志野学校、満州第516部隊だった。これらは、それぞれ化学兵器(毒ガス)の研究、教育、それに、実戦試用開発を受け持っていた。さらに、アセトシアンヒドリンを研究していたのは、謀略戦研究を受け持っていた第9陸軍技術研究所だった。


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諏訪敬三郎・軍医大佐は国府台の陸軍精神病院の院長。精神科の医師は、毎日のように患者と会話をするので、知らず知らずのうちに自分の精神状態もおかしくなりがちだそうだが…。

              ↓

http://kenkyukaiblog.jugem.jp/?eid=154

 昭和12年(1937)末、小泉親彦陸軍省医務局長(東条内閣の厚生大臣で、終戦後自決)と、陸軍唯一の精神科専門医であった諏訪敬三郎軍医中佐の努力で、陸軍病院に再び精神科が設置されることになり、昭和13年(1938)精神科専門の国府台陸軍病院が誕生しました。



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《帝銀事件に関する「田仁」氏のコメント》


この事件(注:ここでは帝銀事件を指す)はコレだけでは終わっていない。

ぶっちゃけ!最近のイラク戦争でも、例のブッシュ大統領「戦闘終結宣言」以降、さらにゲリラ戦が継続して日々死傷者が軍民共に出続けているが、その混乱の最中、実に奇怪な事件が起きている。

それは、繁華街の出店で新開発の「香水」が新発売!皆さん寄ってらっしゃい!旦那さん、奥さんに如何よ?てな具合で、老若男女に匂いを嗅がせた事から始まった。

匂いを嗅いだ人々は皆一様に帰宅後に気分が悪くなり、約40人が重軽傷、数人死亡の惨事に発展、しかし警察の捜査は上手く行かず迷宮入りし、どうやら某情報機関の遅効性毒物の人体実験だった疑いが濃い。

ココからは推測だが、恐らくは中華人民共和国成立以前の国民党支配地域や、ベトナム戦争中の南ベトナム、中南米の「麻薬戦争」中にも類似の事件が起こっているのではないか。

ネットの捜査力が最大限発揮される事を願って止まない。

               ↓

☆モサドとCIAがイラクで毒香水販売? 
(2006年5月31日の「日刊ベリタ」

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200605310910493

【東京31日=齊藤力二朗】欧州諸国で訓練を積んだモサド(イスラエルの対外諜報機関)や米中央情報局(CIA)要員がイラクの市内で通行人に毒香水を嗅がせており、多数が死亡するに至っていると29日付のイラクのネット紙バスラ・ネットが報じた。「犯行」の目的などは報じていない。



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生前、しばしばテレビ出演していた遠藤誠弁護士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E8%AA%A0
の著「帝銀事件と平沢貞通氏」(三一書房・1987年7月発行)に

「帝銀事件の翌年、第七三一部隊の諏訪中佐は九州で謎の死を遂げている。」
(死因、及び捜査資料等については全て不明)

と書いてあるらしいのだが、私は未確認。



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佐伯省・著「帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件」(絶版?)の説

              ↓

http://blog.livedoor.jp/miliken/archives/50385940.html
本書は37年間あらゆる角度から調査して、真犯人を追求しています。彼は、「真犯人ではなく、日本軍特務機関に所属していた能口という歯医者だ」と断定しています。「平沢はその前にあった未遂事件の犯人であり、能口を含む悪い仲間に陥れられた」と推理しています。


http://blog.goo.ne.jp/00004341/e/8bc5de40485ab034d1ae9057985a3822
犯人はある歯科医でその背後には731部隊なんかがあるということ。その歯科医には共犯がいてGHQ関係のロッジ関係者だったこと。その共犯は明らかに謀殺としか思えない状況で列車に轢かれて死んだこと。平沢も実は一枚かんでいて、その前に予行演習のように行われた品川区の荏原と中野区中井の銀行での未遂事件の実行犯は平沢じゃないかということ。そこで押収された名刺が確かに平沢逮捕の唯一の物証だからはめられた可能性があるわけ。真犯人はやっぱり731部隊関係者でGHQが最初から絡んでたとすると行員はモルモットにされたわけかー。



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